星が強く照り輝いて眩しい程の夜には、ナイフが妖しくも美しく光る。
これにあの鮮やかな液体が付着するとさぞ綺麗だろうと矢萩は考えたが、すぐに取りやめた。もう一度獲物を構えなおす。
「お前・・・・・『番』か」
「おしい」いや、実際にはおしくも無いのだが 「でもあながち間違って無いかも」
「何度来ても無駄だ、証拠なんざ見つかりっこないんだ」
「よく聞いてる。うまいことやってるじゃない、どうやってんのか教えてよ」
「とっとと失せろ。お前に構っている暇は無い」
「寂しい事言わないでよ。俺だって暇じゃない。お互い我慢が大事だ」
「このまま私を拘束していてみろ。部下が飛んでくる。お前の首を飛ばす為にな」
「オイきいてんのか」
「今日はこの後大事な会合があるんだ、放せ」
「おーい」
「証拠が欲しいなら山下にでも行くんだな」
「聞いてる?二回目」
「私を構っている暇があったら、どこかを『夜』から救えるのではないのかね」
「俺さぁ」 キラリ、と煌く。 「嫌いなんだよね、話噛み合わない奴」
ブチン、と小気味良い音がして、続いてどさりと倒れこんだ。
それはさっきまで肝の座った白髪交じりの男だったものだったが、どうしたことか今は1mmも動く気配が無い。血は流れていない。
少しの間、矢萩はそれを哀れむ目で見ていた。手の中の獲物からは、星明りに煌く赤黒い液が滴っていた。
やっぱり綺麗だ、と呟きながらも液を振り払う。不思議と獲物は次の瞬間に消えた。
路地裏から更なる裏へ入り込む道へ踏み込む足取りは軽くもしっかりと大地を掴んでいた。
残された白髪交じりの男だったものは、少し前まで食べ物の入り口だったところからあの綺麗な液を零していた。
それはどの宝石にも例え難く、どの値の張る洋酒よりも美味でありそうで、どの世界で見ても気味の悪いものだった。
いつも爽やかであるはずのある日の朝は、ひどく騒がしかった。
学業所へ向かっていた由子は、そこまでの道のりでその騒ぎを目にした。
手には鞄、パンツスタイル、いつもの格好だった。
一瞬、なんだろう、とは気に留めたがすぐにどうでもよくなった。
彼女の頭は二つの事を同時に考えるには少々足らないからだ。
常に彼女の頭には一つの議題が挙がりっぱなしのため、ほかの物はたいてい入り込むことはできない。
それが由子の日常だった。
自分で自分を嫌いになるほどの何も無い日常だった。
「あ、由子。おはよう」
「おはよう」
学業所へ入るとまず一番に挨拶してきたのは髪を二つに結った地味な顔立ちの女子だった。名前は必要ないので覚えていない。
友人だと認識したこともないがあちらはそう思っているだろうし、自分もどこかでそう思いたい自分がいるのを知っていたので特に拒絶したことは無かった。ただし自分からは何もしないが。
「ねえ」と二つ結いの女子が言う。「朝の騒ぎ、聞いた?」
なんのことだろう、と由子は首をかしげ少し考えた後、ああ、と思い出した。「朝見たよ」
「本当!?ねえ何見た?」
〈何も、〉と思った。「何も」
本当に何も見ていない。あったことすら忘れていた人間が何故覚えていようか。
「え?見てきたんでしょう?」
「横を通ってきただけだから。人だかりしか見えなかった」
「あーなんだそっかー・・・」
〈話を続けるには、〉と由子は考えを巡らせた。質問をすればいい、そうすれば相手は勝手に話し続ける。
「騒ぎって何だったか知ってるの」
「えっ知らないの!?実は今日の朝」
完璧だ、と由子は思った。完璧だ。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「その騒ぎなんだけど、なんか死体が出たんだって。路地裏で」
「路地裏。」
「そう。漫画みたいで笑っちゃうよね。」
可愛そうに、と由子は思った。几帳面に結ばれた二つの髪の束を見ながら、お前たちの守っているものはとても陳腐だ、とも思った。意味が無いと判っていて行う行為は惨めなものだ。人の命というのは思ったより余程重い。目の前にいる女はそれをわかっていない。人の死を笑うなど、視界に移る範囲しか見えない人間のする事だ。
「死体は高島だったらしい」
「!」
高島。由子は繰り返した。確かに目の前の女はそう言った。高島、高島、高島・・・・。確かその男は。
「大変だよねーどうするんだろう、あの人の会社、貿易輸送だったでしょ。この国もどうなるのかなぁ」
「高島・・・・」
「でね、その高島の死体なんだけど」二つ結いの女子がそう続ける。「おかしかったんだって」
「おかしかった?」
「そう」どこか神妙な顔つきで言葉をつなげた。
「首は外傷一つないのに、首の脈が切れて死んでたんだって。」
「由子、高島様にご挨拶なさい」
白髪まじりの少々厳つい顔をした中年男性がそう言った。声は硬く、表情はどこか緊張した面持ちだった。
由子が何を言えばいいかと言葉を詰まらせていると、由子の斜め前の席に座っていた男が柔らかく微笑んだ。
「良いですよ義孝さん」
「そんな、高島様」
厳つい顔をした中年男性、由子の父、義孝は焦り出した。同時に由子に責めるような眼を向けた。
「立派な娘さんをお持ちだ」
「は、はぁ。申し訳ありません」
面白い、と由子は思った。面白い。
いつもならでかい顔をして踏ん反り返っているだけの父親も、腰を折れるほど低くし人と接する事もあるものなのだと認識すると、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。時と場所と場合で人は変わる。理不尽だと思うかもしれないが、そうでもしないとこの身分社会は機能しないだろう。理不尽は社会の基本だ。
「由子、高島様の事は常から聞かせているだろう。この国の貿易を背負っておられる方だぞ。失礼を働くんじゃない。」
「私なんて聞かせる程の人間で無いでしょう」
「何をおっしゃりますか、高島様のお陰でこの国は成り立っているのです。私たちがこうして暮らしていけるのも高島様のお陰です」
いつもは文句ばかりを言う義孝のその言葉に嘘は無かった。
高島という男はこの国と他の国の交易を一手に引き受ける、この国唯一の貿易商だ。
もともと国家間の交流が出来るほど文明が発達していないこの国で貿易など望めるものでは無かったが、高島はそれを実現させた。
夜を渡る船は作れなかったが、夜を越えて通信できる機器を開発したのだ。
それを使って他国と交信し、夜を渡って来てくれるよう交渉した。
それからまだ未発達であったこの国も他の国の文化、技術を取り入れ、発達してきた。
義孝はその恩恵を受けた最も典型的な例だった。最近では他国の豪族が家をわざわざ訪ねてくるほどになった。
暮らしは前と比べて格段に豊かになったが、時々させられる挨拶が、どうも由子は苦手だった。
高島への挨拶も最後までまともにせず、そのまま下がった。